能登立国1300年とは

能登立国1300年ものがたり

能登立国1300年ものがたり
遡ること1300年。時は奈良時代。
女帝・元正天皇により元号が
改められたばかりの養老2(718)年、
越前国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の
4郡が独立し、能登国が誕生しました。
奈良時代といえば、東大寺に大仏が建立され、
『日本書紀』や『万葉集』が完成したほか、
原形のまま今も残る正倉院が建築されるなど、
日本の歴史を紐解くうえで
大切な手がかりとなる出来事が多く起きた時期。
このような時代に、能登国がつくられた背景には、
能登半島の立地と朝廷で貴族達が権力を握っていたことが
深く関係していたと考えられます。
日本海に開くように位置する能登半島は、
当時大陸との交流拠点になっていました。
志賀町に現存する福浦港は、
中国大陸の日本海側にあった国、
渤海の使節団が着来する地に定められており、
貴族達にとっては毛皮など貴重な品が
持ち込まれるいわば流行発信基地でした。
さらに、朝廷に服従しない東北の人々を支配する際の
拠点にも最適だったため、能登を一つの国として統治し、
都との繋がりをより強くしようとしたのです。
しかし、天平13(741)年。
能登国は越中国に併合され、地図から姿を消します。
当時の越中国守は万葉歌人の大伴家持。
領地の視察として訪れた能登で詠んだ和歌には、
当時の人々の暮らしぶりがいきいきと表現されています。
天平宝字元(757)年、再び羽咋、能登、鳳至、珠洲4郡が
独立し能登国が復活。政治を行った国府は
現在の七尾市内にあったとされていますが、その所在は今も謎のままです。
その後、鎌倉、南北朝時代を経て、
室町時代には畠山氏が守護となり七尾に城を築きます。
都から招いた多くの文化人によって
文芸活動が盛んに行われ、畠山文化が花開。
山麓につくられた城下町の人々にも大きな影響を与えました。
この頃七尾に生まれたのが、
後に桃山時代を代表する絵師となった長谷川等伯。
京文化を基盤にした能登国の畠山文化が、歴史に名を残す芸術家を育んだのです。
天平5(1577)年、難攻不落といわれた七尾城が
上杉謙信により落城に追い込まれ、畠山氏が滅亡。
謙信の急死で織田信長の所有となり、
能登一国の大名に任ぜられた前田利家が入城。
ここからあまりにも有名な加賀百万石ストーリーが始まります。
1300年前の能登立国。
それは、能登半島だけの物語ではなく、
加賀藩や石川県のなりたちから
現代へと続く歴史の出発点だったのです。
(※歴史解釈には諸説あります。)